自己紹介

自分の写真

千葉・青葉の森公園近くで小さなヨガ教室「ギーターヨーガ」を営んでます。http://gitayoga.jp/

2011/11/22

友人のブログより

友人のブログにこんなことが書いてあった。

「心を豊かにする方法を知っている筈なのに
 何だか満たされないのは何故だろう。(途中省略)
ずっと欲しかった筈のカメラを買ってみて。
嬉しいは嬉しいのだけど、はて、何か違う。
お酒を少し飲んでみて、眠れるかと思えば、寝れやしない。
何かが違う。
何かが足りない。
何でか浮かない。」



私はこの文章を読んで思い出したことがある。
幼い時私が漠然と不安を抱えていたということだ。
それが何かが分からなくて、とにかく不安だったことを覚えている。
2つ下の妹がいるが、妹はそんな様子はなかった。
同じ両親のもとに育っているのに、おそらく私だけが不安を抱えていた。
周りの友達や兄弟は遊びに夢中で、楽しそうにしていたが
私は遊ぶことにも楽しみをあまり見つけられなかった。
でもある時、心が満たされる場所に出会った。
近くのキリストの教会だった。
私がその後一人で教会に通うようになったのは、6歳か7歳の頃だった。
もちろん家はクリスチャンでも何でもない。
なぜだか私はそこに一人で入っていったのだ。
とても温かく迎えられた。
賛美歌を歌ってる時とか、祈っているときすごく幸せを感じた。
ある日、教会のクリスマスパーティーで
私は賛美歌を歌うことになった。
クリスマスパーティーはいつも来ない子供たちも
お菓子目当てに集まっていた。
近所の友達に私が賛美歌を歌っているのを馬鹿にされて
その後教会には行かなくなった。

最近インドでは8歳までは学校に行かせたりせず
親の元で育てるように制度を見直しているらしい。
8歳くらいまでは前世で起こった出来事を思いだしたりするようだ。
そして漠然と不安を抱く子供が少なくないらしい。
インド、ヴェーダの国の人々はこういうことも自然に受け入れるのだ。
日本でこんなこと言ったら、ちょっとおかしな人扱いになってしまう。
友人の「何かが足りない」という言葉。


私に何かが足りていないのではなく
私が足りていない(私が理解していない)ということ。
それを解き明かしていくことが、ヨーガ。


現在私はこういった「何かが足りていない」という感覚がない。
アルタ(安全)、カーマ(喜び)を求めることから自由になりつつあるから。
外から内から何かを得ることでは満たされないことを知ったから。
「人が求めている究極のゴール」を
たったひとつの生まれてきた目的を求めるようになったから。
それをモークシャ(自由)と呼ぶ。
自由を得るという言葉も少し違うかな?
私たちは自由だから。
ノンストップで書いてしまった。
読んだ方きっと???で疲れましたね(^◇^)
お付き合い頂いてありがとうございました。
ヨーガはとっても深いので、一生かけて勉強するつもりです。

0 件のコメント:

コメントを投稿